宇多田ヒカルの『traveling』にひそ
む『平家物語』の無常

宇多田ヒカルの代表曲のひとつ『traveling』。この曲は2001年リリースされたシングルです。POPで軽快な曲。紀里谷和明監督のカラフルなMVが目をひき、曲を引き立てています。宇多田ヒカルはその後、紀里谷和明監督と結婚し、離婚。この曲は、両者が知名度を上げていった時期の曲であり、その高揚感が曲にもMVにも表れています。





金曜の仕事が終わってから君のもとへタクシーで向かう、という冒頭の歌詞。「仕事」「金曜の午後」「タクシー」という具体的な単語でイメージが湧きやすくなっています。歌詞の主人公は、「君」のもとへ向かっている。おそらく「君」とは恋人なのでしょう。



「風にまたぎ月へ登り」というファンタジックな歌詞が続き、歌詞の主人公の高揚感が伝わってきます。「僕の席は君の隣り」という表現で、君のもとへたどり着いたことが分かり、「春の夜の夢」のように楽しい気分なのだろう、ということも伝わってきます。このあたりのフレーズは「かぜに」「またぎ」「つきへ」「のぼり」というように、全て三文字ずつで区切っており、リズムを崩さずにそのまま勢いよくサビへとつなげていく構成。



サビは一度聴いたら耳に残る「Traveling」の連呼。旅行する意味を持つこのタイトルを連呼することで、歌詞の主人公が「君」と共に旅行するのだろうということがすぐ分かり、高揚感が伝わってくる作りになっています。テンションが上がり過ぎ「壊したくなる衝動」という危うさまで表れます。そして、この危うさこそが、この曲の持ち味。



例えばこの後半のフレーズ。「みんな盛り上がる時間だ」と歌いつつ、「少しだけ不安が残ります」と続けています。高揚感の中にひそむ不安に対しても言及している。しかも「どうしてだろうか」と自問自答するほど、なぜ不安になるのか分からない。



2番のサビ直前。「波とはしゃぎ雲を誘い」とここでも自然を巻き込むほどの高揚感を見せ、「ついに僕は君に出会い」ます。「若さ故にすぐにチラリ」と距離感が近いことを示し、その後に「風の前の塵に同じ」が登場。

このサビの直前で『平家物語』の冒頭「祇園精舎」の引用がくるのです。「春の夜の夢のごとし」と「風の前の塵に同じ」は、原文では「驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」と表現されています。おごり高ぶっている人の世も永久ではなく、春の夢のようにはかない。勢いが盛んな人も結局は滅び、風の前を飛ぶ塵と同じである。そういう意味です。

高揚感と無常観を同時に歌っているのです。ここが宇多田ヒカルのすごいところ。この曲は、オリコンチャート週間1位を記録し、85万枚売れています。自身のアルバムが400万枚売れていた時期です。そんな時期ですら、この圧倒的な人気も永遠に続くものではないと感づいているのです。

なぜこの曲は、宇多田ヒカルは、ずっと好かれているのか。それは、この曲がとてつもない高揚感と勢いとノリの良さを持っているから。同時に、よく聴くとメロディやフレーズの中に密かに無常観が潜んでいて、ただ単に明るいだけの曲にはなっていないからなんですね。

TEXT:改訂木魚(じゃぶけん東京本部)

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