爆音アワー

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いい音爆音アワー vol.62 「ナイス!
アレンジ特集」

いい音爆音アワー vol.62 「ナイス!アレンジ特集」

2016年1月20日(水)@風知空知

音楽業界人は「アレンジ=編曲」という言葉をけっこう使いますが、一般的には案外なじみがないみたいですね。でもたとえば、「イントロがいい」とか「ギターのフレーズが好き」とか「リズムが面白い」なんて会話はよくあるわけで、それらは実はどれもアレンジについて語っていることになるんですね。

つまり「アレンジ」=「どういうサウンドにするかを決めること」。

で、そのように何か印象に残るってことは「ナイス!アレンジ」と言っていいと思いますし、中には特にどこってことはないけど全体にいい感じという場合もありますよね。それもナイス!です。

アレンジが違えば同じメロディでも印象が全然違ってきます。アレンジによって、大したことない曲が(^^)、ボツになりそうだった曲が(^^)、めちゃポップになって大ヒットしたという例も多々あるのです。
福岡智彦 (いい音研究所)

セットリスト
The Beatles「Come Together」


ただのロックンロールを、歴史的名曲にしたアレンジの力。

21th(米では26th) シングル(「Something」と両A面)(1969年10月6日発売)

12th アルバム『Abbey Road』(1969年9月26日発売)収録

作詞・作曲:John Lennon & Paul McCartney/プロデュース:George Martin

全米1位・全英4位 アルバムは(もちろん)全米・全英ともに1位


ティモシー・リアリーという人がカリフォルニア州知事選挙に出馬し、ジョンは応援ソングを作ってくれと頼まれた。そのスローガンが「Come Together!」。ジョンは作ろうとするが応援歌はできず、できたのがこの作品だった。

最初はロックンロールっぽい曲調だったが、ポールが「スワンプっぽくしよう」と提案してテンポを落とし、あのようなベースラインにした。
「シュッ」という声は「Shoot me」と言っているらしい。

ジョンは、「ビートルズの中で一番好きな曲」と語っている。

1973年、チャック・ベリーの著作権を管理する、マフィアとつながりがあったモリス・レヴィー(Morris Levy)の音楽出版社「Big Seven Music」から、この曲がベリーの「You Can't Catch Me」の盗作だとして訴えられた。結局、ベリーの作品3曲をジョンがカバーすることで和解し、ジョンがアルバム『Rock 'n' Roll』を作ることになった。
The Rolling Stones「Jumpin’ Jack Flash」


知らない人がないリフもそうだけど、ザラザラした音の肌触り自体がもうストーンズ。

シングル(1968年5月24日発売)

作詞・作曲:Mick Jagger & Keith Richards/プロデュース:Jimmy Miller

全英1位 ビルボードHOT 100 3位


アルバム『Beggars Banquet』制作中にレコーディングされた。キースがベースも弾いており、ビル・ワイマンはハモンド・オルガンを弾いているが、印象的なギター・リフはビルが考え出した、とビルは言っている。

ベーシックの2本のギターはアコースティック。カセット・レコーダーを通してそのスピーカーで鳴らしているのを録音している、とキースが語っている。

キースの郊外の家にミックが泊まりこんで歌詞を作っていたが、ある朝、庭師のジャック・ダイヤ-が立てた物音で起こされたミックが「なんの音だ?」と質問し、キースは「あれはジャックだ。ジャンプするジャックの音だ(Jumpin’ Jack)」と答えたところから、詞ができていったそうな。
The Jimi Hendrix Experience「All Along the Watchtower(見張塔からずっと)」


作者のボブ・ディランが絶賛したジミヘンの大胆アレンジ。

シングル(1968年9月21日発売)

生前最後のアルバム『ELECTRIC LADYLAND』(1968年10月16日発売)収録

作詞・作曲:Bob Dylan/プロデュース:Jimi Hendrix

guitar, vocal & bass: ジミ・ヘンドリックス(ノエル・レディング(Noel Redding)がレコーディング途中で帰ってしまい、bassもジミが弾いている)/12弦ギター:デイブ・メイソン(Dave Mason)/vibraslapなどパーカッション:ブライアン・ジョーンズ(Brian Jones)/drums: ミッチ・ミッチェル(Mitch Mitchell)

全英5位・全米20位(ジミのシングルで最高位) アルバムは全英6位・全米1位


ボブ・ディラン『John Wesley Harding』(1967年12月27日発売)に収録された曲のカヴァー。2004年、英「デイリー・テレグラフ」紙の「ベスト・カヴァー・ソングTOP 50」で第1位に選出された。
The Jimi Hendrix Experience:

1966年9月、結成。3作のアルバムをリリースした後、1969年、ベースのノエル・レディングが脱退し解散。1970年にビリー・コックス(Billy Cox)をベーシストに迎え再結成するも、9月にジミが死去。2003年にノエルが死去。2008年にミッチ・ミッチェルが死去。
Cactus「Long Tall Sally」


「アメリカのツェッペリン」が、リトル・リチャードのロックンロール・スタンダードをヘヴィ・ロックにアレンジ。痺れます。

2nd アルバム『One Way...Or Another』(1971年2月24日発売)収録

作詞・作曲:Robert ""Bumps"" Blackwell, Enotris Johnson & Richard Penniman (Little Richard)/プロデュース:Cactus

オリジナルはリトル・リチャード(1956年3月発売)


1969年、元”ヴァニラ・ファッジ”のカーマイン・アピス(dr.)とティム・ボガート(b.)はジェフ・ベックとバンドを結成する計画だったが、ベックが交通事故に会い、頓挫。

1970年、”Mitch Ryder’s Detroit Wheels”のジム・マッカーティ(Jim McCarty)(g.)と”The Amboy Dukes”のラスティ・デイ(Rusty Day)(vo.)を誘い、”Cactus”を結成。

1970年7月1日、1st アルバム『CACTUS』リリース。

1971年2月24日、2nd アルバム『One Way...Or Another』リリース。

1971年10月18日、3rd アルバム『RESTRICTIONS』リリース。その後、マッカーティが脱退、デイは解雇。別のメンバーを入れて1972年8月、4th アルバム『’Ot 'N' Sweaty』をリリースするが結局解散。

2006年、再結成。

2011年にボガート脱退するも、バンドは現在も活動中。
Dave Stewart & Barbara Gaskin「Locomotion」


プログレ風味の緻密なアレンジで、シックスティーズの名曲が華麗な復活。

7th シングル(1986年5月発売)

2nd アルバム『As Far As Dreams Can Go(ドリームズ)』(1988年発売)収録

作詞:Gerry Goffin/作曲:Carole King/アレンジ:Dave Stewart

オリジナルはLittle Eva(1962年6月発売)


元”EGG”~”Hatfield and the North”~”National Health”~”Bruford”のデイブ・ステュワートと、元”SPIROGYRA”~”Hatfield and the North”のバーバラ・ガスキンが、1981年に結成したユニット。同年秋に60年代ヒットソングの「It's My Party」をカヴァーし、全英4週連続1位のヒットとなる。
Scritti PolittiSmall Talk」


1983年5月に発売されたYAMAHA DX-7をいち早く駆使し、80年代サウンドの基盤を作ったシンセ・ポップ・バンド。

2nd アルバム『Cupid & Psyche 85』(1985年6月10日発売)収録

作詞・作曲:Green Gartside & David Gamson/プロデュース:Green Gartside, David Gamson & Fred Maher

シングルとして発売する予定だったが、Rough Tradeとの契約上、出せなかった。

アルバムは全英5位、全米50位


1976年、グリーン・ガートサイド(Green Gartside)を中心に英国ヨークシャー、リーズにて結成。

1978年、自主制作レコード『Skank Bloc Bologna』をリリース。

1979年、Rough Tradeと契約。アルバム制作に入ろうとしたころ、ギグ中にガートサイドがパニック発作で倒れる。両親の元で9ヶ月間の療養生活を送るうち、パンクに対する興味は薄れ、ポップ・ミュージックに目覚める。

1981年1月、「The 'Sweetest Girl’」という曲が、音楽誌「NME」がリリースしたカセット・アルバム『C81』に収録される。この曲は高い評価を得、「New York Times」紙では「この年の10本の指に入る名曲」と書かれたが、なぜかシングルとしての発売は10ヶ月も後になり、ヒットはしなかった。

1982年8月、1st アルバム『Songs to Remember』リリース。全英12位、これはRough Tradeレーベルにとって今までに最も売れた作品である。

1983年、Rough Tradeの資金力に限界を感じ、Virginと契約。

1985年6月、2nd アルバム『Cupid & Psyche 85』をリリース。高い評価と共に売上面でも成功をおさめた。

1988年、3rd アルバム『Provision』をリリースするが、前作ほどの売上には達しなかった。

2000年代以降はコンスタントに活動再開、2006年にサマー・ソニック出演。
Laura Mvula「Green Garden」


まるで異空間に迷い込んだような気分になる、独特のアレンジ。

1st シングル(2013年2月22日発売)

1st アルバム『Sing to the Moon』(2013年3月1日発売)収録

作詞・作曲・編曲:Laura Mvula/プロデュース:Steve Brown

アルバムは全英9位


1986年4月23日、英国バーミンガム生まれ。父はジャマイカ出身。

バーミンガム市立大学の作曲科を卒業後、中学校の補欠教員をしながら曲作り。

デモ・テープがプロデューサーのスティーヴ・ブラウンの目に止まり、2012年、RCA(ソニー傘下)と契約、同年11月16日にデジタルEP「She」をリリース。

2013年3月、1st アルバム『Sing to the Moon』リリース。

2013年の「MOBO(Music of Black Origin) Awards」で、ベスト女性アーティスト賞、ベストR&B/soul アーティスト賞を獲得。ベスト・アルバムはノミネート。

2014年8月11日、『Sing to the Moon』のオーケストラ・バージョンをリリース。
The Corrs「Angel」


ケルトの血とトレンディなポップ・アレンジの絶妙なブレンド、そこにこのエンジェル・ヴォイスとくればもう逆らえません。

シングル(2004年9月13日発売)

4th アルバム『Borrowed Heaven』(2004年5月31日発売)収録

作詞・作曲:The Corrs/プロデュース&プログラミング:Olle Romo(オレ・ロモ)


アイルランド出身のコアー兄弟(Jim, Sharon, Caroline, Andrea)が、1991年公開の音楽映画「The Commitments」のオーディションを受け、チョイ役で出演する。その時ミュージック・アドバイザーをしていたジョン・ヒューズ(John Hughes)が彼らの才能を認め、マネージャーを買って出る。

1994年、アイルランドの米国大使がダブリンのパブで演奏する彼らを観て気に入り、FIFAワールドカップ・ボストン大会でのパフォーマンスを依頼する。その折、プロデューサーのデイヴィッド・フォスター(David Foster)に認められ、アトランティック・レコードと契約する。そのまま米国滞在を延ばし、フォスターのプロデュースの元、1st アルバムのレコーディング。

1995年9月、1st アルバム『Forgiven, Not Forgotten』をリリース。米国では131位だったものの、全英2位、アイルランドやオーストラリアでは1位とヒット。

2000年7月、3rd アルバム『In Blue』リリース、世界的にヒット。

2004年5月、4th アルバム『Borrowed Heaven』リリース。各国でチャートインするも前作の実績には届かなかった。

2006年より活動停止。

2015年11月、10年ぶりの6th アルバム『White Light』をリリースし、ライブも再開。
小林旭「ダンチョネ節」


民謡にマンボ・サウンド。そしてアキラの伸びやかな歌唱で、なんとも豪快な世界。

シングル(1960年3月1日発売)

元は神奈川県三浦市三崎町の民謡

作詞:西沢爽/補作曲:遠藤実/編曲:狛林正一

日活映画「海から来た流れ者」(1960年2月28日公開)の主題歌


小林旭の「民謡シリーズ」の最初。ペレス・プラード風のマンボ・アレンジを、歌謡曲史上初めて大胆に導入したのは狛林正一のアイデア。

1938年11月3日、東京市世田谷区生まれ

子役を経て第3期日活ニューフェイスに合格。

1956年、映画「飢える魂」で俳優デビュー。1959年公開の映画「南国土佐を後にして」で脚光を浴び、石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。

1958年、日本コロムビアより「女を忘れろ」で歌手デビュー。

1962~1964年、美空ひばりと結婚(山口組三代目組長・田岡一雄からの頼まれ婚)

1985年、大瀧詠一作曲・阿久悠作詞の「熱き心に」がAGFのCMソングでヒット。
PUFFY「MOTHER」


なんでもないようなフォーク・ロック・アレンジなんだけど、「And I Love Her」のギター・フレーズの巧妙な配置によって忘れられない作品になった。

5th シングル(1997年12月12日発売)

2nd アルバム『JET CD』(1998年4月1日発売)収録

作詞・作曲・編曲:奥田民生

オリコン5位 アルバムは1位
近田春夫氏は「考えるヒット」において絶賛。「曲中の「And I Love Her」そっくりなギターのフレーズも、偶然にも同じだった、としか思えぬほど、オリジナルに聴こえてくる。」

1996年5月に奥田民生のプロデュースによるシングル「アジアの純真」でデビューした、大貫亜美と吉村由美の女性デュオ。今年20周年。

最新作は2015年11月18日発売の34th シングル「パフィピポ山」
ちあきなおみ「無駄な抵抗辞めましょう」


レジェンドになりつつある天才歌手のかる~い歌を、楽しく聴かせる明るいアレンジ。

7th シングル(1971年2月25日発売)

作詞:なかにし礼/作曲:鈴木淳/編曲:小谷充

この曲も!サビの終わりに「And I Love Her」のギター・フレーズが隠れている(^^)


1947年9月17日、東京都板橋区生まれ。

10代から米軍キャンプやジャズ喫茶やキャバレーでいわゆるドサ回り。

作曲家・鈴木淳の元で1年4ヶ月レッスンを受け、1969年、21歳の時、日本コロムビアから「雨に濡れた慕情」でデビュー。

1970年、「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」がヒット。

1972年、「喝采」が第14回日本レコード大賞を受賞し、年末から翌年にかけて80万枚を売り上げる大ヒット。

1978年、俳優の郷?治(宍戸錠の実弟)と結婚。

シャンソン、ジャズ、ファドなど様々な音楽に挑戦。

1992年、夫郷?治と死別。その後一切の芸能活動を停止して現在に至る。
アン・ルイス「女はそれを我慢できない」


計算し尽くされた歌謡曲アレンジ。ツボを押さえてます。

14th シングル(1978年5月5日発売)

アルバム『Think! Pink!』(1978年9月25日発売)収録

作詞・作曲:加瀬邦彦/編曲:佐藤準

タイトルは1956年の米映画「The Girl Can't Help It(女はそれを我慢できない)」から拝借


1956年6月5日、兵庫県宝塚市生まれ。

父親がアメリカ人(海軍の軍人)で母親が日本人。

1971年2月25日、シングル「白い週末」でデビュー。

1974年、「グッド・バイ・マイ・ラブ」がヒット。

1980年、桑名正博と結婚。

1984年、桑名正博と離婚。「六本木心中」がヒット。
大沢誉志幸「e-Escape


若くして亡くなった大村雅朗さんは、ほんとにセンスのいいアレンジャーでした。

2nd シングル(1983年10月21日発売)

1st アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』(1983年6月22日発売)収録

作詞:銀色夏生/作曲:大沢誉志幸/編曲:大村雅朗
1957年10月3日、東京都杉並区高円寺生まれ。

駒澤大学3年の1978年、”クラウディ・スカイ”を結成。

1981年4月にビクターからデビュー、アルバム『明日はきっとハレルヤ』をリリースするも鳴かず飛ばずで同年末に解散。

沢田研二吉川晃司中森明菜などアイドルにも積極的に楽曲を提供、作曲家として脚光をあびる。

1983年6月22日、EPICソニーより、シングル「彼女には判らない」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』でソロデビュー。

1984年9月21日、シングル「そして僕は途方に暮れる」が日進カップヌードルのCMソングともなり、ヒット。

1999年3月、一旦歌手活動を終了。

2002年、本名の「大澤誉志幸」で再スタート。

2012年、アコースティック・ライブ「渡り鳥ツアー」開始。現在も全国津々浦々を訪れている。
大村雅朗:1951年5月8日 - 1997年6月29日、福岡市博多区出身

肺不全により46歳没
チャクラ「いとほに」


アヴァンギャルドの地平に限りなく挑みながら、なおれっきとしたポップ・ミュージックであるという、知られざる大名曲。

2nd アルバム『さてこそ』(1981年11月21日発売)収録

作曲:板倉文/編曲:チャクラ/制作協力(プロデュース):細野晴臣

日本式音名のヴォーカリーゼ、繰り返しのパートがない、という特異さが細野晴臣の琴線に触れた。


1978年4月、小川美潮が加入して”チャクラ”始動。

1980年7月、ビクターより1st アルバム『CHAKRA』リリース。

1981年11月、2nd アルバム2nd アルバム『さてこそ』リリース。

1983年5月、3rd アルバム『南洋でヨイショ』をリリースした後、解散。
桐島カレン「憂鬱な姫君」


本人は歌手になる気はなかったらしいけど、このアレンジは本気入ってますね。

1st アルバム『Karen』(1990年6月27日発売)収録

作詞:森雪之丞/作曲・編曲・プロデュース:高橋幸宏鈴木慶一


1964年8月20日、横浜市生まれ。

父親はアメリカ人、母親は作家の桐島洋子。弟は写真家の桐島ローランド。妹はエッセイストの桐島ノエル。

1986年、「資生堂」のキャンペーン・ガールとしてモデル・デビュー。

1989年、再結成”サディスティック・ミカ・バンド(Sadistic Mica Band)”にボーカルで参加。4月にアルバム『天晴』をリリース。

1990年、ソロ・アルバム『Karen』リリース。

1993年、写真家の上田義彦と結婚。
カーネーション「世界の果てまで連れてってよ」


次々と景色を変える賑やかなアレンジは、たしかに「世界の果てまで連れてって」くれる気分。

3rd シングル(1996年1月20日発売)

6th アルバム『a Beautiful Day』(1995年8月19日発売)収録

作詞・作曲:直枝政太郎/編曲:カーネーション


1983年、直枝政広を中心としたバンド”耳鼻咽喉科”が”カーネーション”に改名。

1984年、ケラが主催するナゴム・レコードからシングル「夜の煙突」をリリース。ナゴム史上でも記録に残るほど売れなかった。

1989年、森高千里が「夜の煙突」をカヴァーし、人気曲となる。

1994年、5th アルバム『EDO RIVER』がスマッシュ・ヒット。

現在は直枝と大田譲のデュオ状態。2015年12月に最新曲「アダムスキー」を7インチ・アナログでリリース。
David Bowie「Starman」


死の2日前に『ブラック・スター』というアルバムをリリースするなんて、デヴィッド・ボウイは最期までほんとのスター・マンでした。

シングル(1972年4月14日発売)

5th アルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』(1972年6月16日発売)収録

作詞・作曲:David Bowie/プロデューサー:David Bowie & Ken Scott

全英10位・全米65位 アルバムは全英5位・全米75位


2016年1月10日(日)、死去。

ボウイのFacebookで、日本時間の11日午後、「2016年1月10日、18ヶ月におよぶ癌との勇敢な闘いの末、本日、デヴィッド・ボウイが、家族に囲まれる中、安らかに息を引き取った」とコメントされた。

2016年1月8日、69歳の誕生日にニュー・アルバム『★ (Blackstar)』をリリースしたばかり。
本名:David Robert Haywood Jones

1947年1月8日、英国ロンドン市ブリンクストン生まれ(同い年:細野晴臣、エルトン・ジョン、ちあきなおみ、ジェフ・リン)

1967年6月、1st アルバム『David Bowie』をリリース。

1969年、映画「2001年宇宙の旅」に影響されて、2nd アルバム『Space Oddity』を制作。アポロ11号月面着陸(7月20日)直前の7月11日にシングル「Space Oddity」をリリースし、全英5位・全米15位のヒット
The Doobie Brothers「Long Train Runnin'」


イントロクイズの初級問題。2拍で判る個性はアレンジの理想形。

シングル(1973年3月28日発売)

3rd アルバム『The Captain and Me』(1973年3月2日発売)収録

作詞・作曲・vocal:Tom Johnston/プロデュース:Ted Templeman

全米8位 アルバムは全米7位


この曲は以前からライブでもやっており、ただ歌詞やタイトルは適当で、ジョンストンはレコード化したいとは思っていなかったという。プロデューサーのテンプルマンが「この曲には何かある」と言い、歌詞をしっかり書くように指示した。
1969年にドラマーのジョン・ハートマン(John Hartman)とギター&ボーカルのトム・ジョンストンが意気投合。

1970年、ギター&ボーカルのパトリック・シモンズ(Patrick Simmons)とベースのデイヴ・ショグレン(Dave Shogren)が加入。

1971年、ワーナーと契約。4月に1st アルバム『The Doobie Brothers』リリース。

ダブル・ドラムにしようということになり、もう一人のドラマー、マイケル・ホサック(Michael Hossack)を勧誘。

同年10月、2nd アルバムの制作に入るが、途中ショグレンがテンプルマンと衝突、バンドを離れる。12月、後任のベーシストとしてタイラン・ポーター(Tiran Porter)が加入。

1972年7月、2nd アルバム『Toulouse Street』リリース。シングル「Listen to the Music」、「Jesus Is Just Alright」がヒット。

1973年3月、3rd アルバム『The Captain and Me』リリース。大ヒット。

ホサックが突然脱退、9月に後任キース・ヌードセン(Keith Knudsen)が加入。

1974年2月、4th アルバム『What Were Once Vices Are Now Habits(ドゥービー天国)』リリース。シングル「Black Water」が全米1位。

1975年5月、5th アルバム『Stampede』リリース。

ジョンストンが健康を損ね、バクスターの紹介でマイケル・マクドナルド(Michael McDonald)が加入。

1976年3月、6th アルバム『Takin' It to the Streets』リリース。マクドナルドのボーカルをフィーチャー。

1977年8月、7th アルバム『Livin' on the Fault Line』リリース。リリース前にジョンストン脱退。

1978年12月、8th アルバム『Minute by Minute』リリース。全米1位獲得。シングル「What a Fool Believes」がメガヒット。

1982年、解散。

1989年、再結成。
Led Zeppelin「Immigrant Song(移民の歌)」


イントロクイズの超初級問題。このリズムパターン自体がもうZEPの専売特許。

3rd アルバム『Led Zeppelin III』(1970年10月5日発売)収録

作詞・作曲:Jimmy Page & Robert Plant/プロデュース:Jimmy Page

全米16位(英はシングル・カットなし) アルバムは全米・全英1位


1969年1月、1st アルバム『Led Zeppelin』リリース。

1969年10月、2nd アルバム『Led Zeppelin II』リリース。

1970年10月、3rd アルバム『Led Zeppelin III』リリース。

1971年11月、4th アルバム『Led Zeppelin IV』リリース。

1973年3月、5th アルバム『Houses of the Holy』リリース。
The Police「Message In a Bottle(孤独のメッセージ)」


アレンジがかっこいい上に、演奏がかっこいい。最強のトリオでした。

シングル(1979年9月21日発売)

2nd アルバム『Reggatta de Blanc(白いレガッタ)』(1979年10月2日発売)収録

作詞・作曲:Sting/プロデュース:Nigel Gray & The Police

初の全英1位・全米74位 アルバムも全英初1位・全米25位


メインのギター・リフは最初は別の曲で考えたもの、とアンディ・サマーズは語っている。そして2’08”くらいのわずか2小節のアルペジオ・フレーズをスティングが「すばらしい彩りを与えてくれた」と絶賛。

スチュアート・コープランドのドラミングはサマーズが「彼のベスト・プレイ」と絶賛。

スティング自身が「誇りに思ういい曲」と言い、サマーズは「スティングの曲でいちばん好き」と述べている。
1976年11月、”Curved Air”という英国プログレ・バンドでドラムを叩いていたアメリカ人のスチュアート・コープランドがツアー中に、黒と黄の縞のシャツを着たベーシスト、スティングと出会い、連絡先を交換する。

1977年1月、スティングはロンドンに引っ越し、コープランドと再会、セッションを始める。

ヘンリー・パドヴァーニ(Henry Padovani)というギタリストを誘い、トリオ・パンク・バンドを結成、3月からライブを開始。

やがてスティングはアニマルズやケヴィン・エアーズなどいくつものバンドでプレイしていた10歳年上のアンディ・サマーズと出会う。サマーズのギター・プレイに魅せられたスティングはパドヴァーニに限界を感じていたこともあり、サマーズを誘うが、彼の希望はトリオ形態。すぐにパドヴァーニを切るわけにもいかず、とりあえず4人で活動するが、2回ライブをやったのち、やはりパドヴァーニに引導を渡すことになった。

1977年8月、スティング、コープランド、サマーズ3人での初ライブ。

1st アルバム『Outlandos d'Amour』の制作費はコープランドの兄、マイルスが提供した£1,500だった。ナイジェル・グレイが経営するSurrey Sound Studiosの空き時間を借りてレコーディングをした。まだマネージャーもレコード会社もなかったが、「Roxanne」を聴いて大いに気に入ったマイルスが、A&Mとの契約をとりつけた。

1978年春、シングル「Roxanne」をリリース。全く売れなかったが、2nd シングル「Can't Stand Losing You」は42位まで上った。

1979年2月に「Roxanne」を米でリリースすると、32位まで上り、その勢いを得てイギリスでも再リリース、今度は12位となり、”The Police”の名は広く認知されるように鳴った。

1979年10月、2nd アルバム『Reggatta de Blanc』をリリースし、全英チャート1位を獲得する。その後5作連続でポリスのアルバムは全英1位を獲得することになる。
Daryl Hall & John Oates「Private Eyes」


R&B+New Wave、彼らの生み出したサウンドこそ「The 80年代」。

シングル(1981年8月29日発売)

13th アルバム『PRIVATE EYES』(1981年9月1日発売)収録

作詞:Daryl Hall & Sara Allen/作曲:Janna Allen, Warren Pash & Daryl Hall

プロデュース:Daryl Hall, John Oates & Neil Kernon

ビルボード、1981年11月7日付より2週連続全米1位。その後、1980年代、アメリカで最も売れたシングル、オリビア・ニュートン=ジョンの「Physical」が10週連続1位、1982年1月30日付きでこれに替わったのが「I Can’t Go For That (No Can Do)」。そのおかげで10週連続全米第2位だったのがフォリナーの「Waiting For a Girl Like You(ガール・ライク・ユー)」


1967年、フィラデルフィアのあるダンス会場に、ダリル・ホールとジョン・オーツがそれぞれのバンドとともにいたところ、発砲事件が起こり、逃げ込んだエレベーター内で二人が出会う。後に、ともにフィラデルフィアの州立大学「テンプル大学」の学生であることを知る。

1972年、Atlantic Recordsと契約し、1st アルバム『Whole Oats』リリース。

1974年、3rd アルバム『War Babies』リリース

1975年、RCA Recordsに移籍し、通称「シルバー・アルバム」、『Daryl Hall & John Oates』をリリース。シングル「Sara Smile」が全米4位に。

1980年、セルフ・プロデュースに変え、それまでロサンゼルスでレコーディングしていたものをニューヨークに変え、ニール・カーノン(Neil Kernon)というエンジニアを採用して制作した9th アルバム『VOICES』がヒット。シングル「Kiss on My List」は初の全米1位を獲得した。

1981年、続く10th アルバム『PRIVATE EYES』も大ヒット。全米5位。

1982年、11th アルバム『H2O』は彼ら最大のヒット。全米3位。
U2「With Or Without You」


アイリッシュ・ロック・バンドをヒーローからスーパースターに押し上げたアレンジ。

シングル(1987年3月21日発売)

5thアルバム『The Joshua Tree』(1987年3月9日発売)収録

作詞・作曲:Bono/プロデュース:Daniel Lanois and Brian Eno

初の全米1位(3週)・全英4位 アルバムは全米(9週)・全英(2週)他20ヶ国以上で1位

1988年グラミー賞で、アルバム・オブ・ジ・イヤー、ベスト・ロック・パフォーマンスを獲得


この曲のアレンジで特徴的なのはギターのサステイン・サウンド。エッジはこれを世界に3台しかない「Infinite Guitar」(ギタリスト&プロデューサー、マイケル・ブルックが開発)で弾いている。
1976年、アイルランド・ダブリンのマウント・テンプル高校時代に結成。

1980年10月20日、アイランド・レコードより1st アルバム『BOY』リリース。

1983年1月1日、シングル「New Year's Day」リリース。初めて英チャート、トップ10入り(10位)。

同年2月28日、3rd アルバム『WAR(闘)』 リリース。全英チャート初登場1位獲得。

2014年9月9日、13th アルバム『Songs of Innocence』リリース。
10cc「I'm Not In Love」


ボツになりかけた曲から生まれた奇跡のアレンジ。何度聴いてもすごい。

シングル(1975年5月発売)英国以外では3分42秒のショート・バージョン

3rd アルバム『THE ORIGINAL SOUNDTRACK』(1975年3月11日発売)収録

作詞・作曲:Eric Stewart & Graham Gouldman/プロデュース:10cc

全英1位・全米2位 アルバムは全英4位・全米15位


もとはボサノヴァ風の曲調で、ケヴィン・ゴドレイとロル・クレームは「つまらん」と反対したが、そのうちゴドレイがスローテンポな曲にしようと言い、さらにクレームが「曲をコーラスで埋め尽くしてみないか」と提案した。

サンプラーなどない時代なので、テープループを駆使しているんだろうが、それだとすごく手間がかかるしきれいに仕上げるのはむずかしい。彼らはこのコーラスの録音のためだけに3週間を要したという。それにしてもこのクオリティは異常である。自分たちのスタジオ(ストロベリー・レコーディング・スタジオ)を持ち、メンバーの一人(エリック・スチュワート)がエンジニアリングを自ら担当したグループならではの作品と言える。
ともに英国マンチェスター出身の、Eric Stewart、Graham Gouldman、Kevin Godley、Lol Cremeの4人は、それぞれに音楽活動をしながら、エリックが出資者であるStrawberry Studiosで仕事をするようになり、やがていっしょにバンドとして活動を始める。

1972年、エリックの友人だった人気歌手ジョナサン・キングが設立したUKレコードと契約、キングは夢で見た""10cc""というバンド名を彼らに与え、1972年8月4日にシングル「ドナ」を発売、全英2位のヒットとなる。
1973年7月、1st アルバム『10CC』リリース。

1974年5月、2nd アルバム『Sheet Music』リリース。全英9位・全米81位

1975年、フォノグラム(マーキュリー)レコードに移籍。既にできていた「I’m Not In Love」を聴かせると条件がぐっと好転したという。

同年3月、3rd アルバム『THE ORIGINAL SOUNDTRACK』リリース。大ヒットし、全米ツアーも成功をおさめ、バンド絶頂期を迎える。

1976年1月、4th アルバム『How Dare You!(びっくり電話)』リリース。引き続き好成績を上げるが、バンド内に意見の相違が生じ、ケヴィンとロルが脱退、”Godley & Creme”として活動を始める他、1980年代はプロモーション・ビデオの監督業で大成功することになる。

1977年4月、5th アルバム『Deceptive Bends(愛ゆえに)』リリース。

1983年9月、10thアルバム『Windows in the Jungle(都市探検)』リリース。全英70位と不調に終わり、活動を停止する。

1992年5月、再結成アルバム『...Meanwhile』リリース。ケヴィンとロルはゲスト参加。

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