作詞家・喜多條忠のお別れ会に約500
人が参列、石川さゆり、五木ひろし、
南こうせつが挨拶

2021年11月22日に肺がんのため亡くなった作詞家・喜多條忠(享年74)のお別れ会「喜多條忠さんを偲び送る会」が4月22日、東京都千代田区の海運クラブで行われた。

喜多條は1947年10月24日生まれ、大阪府出身。早稲田大学を中退後、文化放送でラジオ番組の構成作家になる。’71年、文化放送で知り合った南こうせつに「マキシーのために」(かぐや姫)を提供し、作詞家デビュー。’73年に「神田川」(かぐや姫)が大ヒット。代表曲は、キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」(’73年)、梓みちよ「メランコリー」(’76年)、柏原芳恵「ハロー・グッバイ」(’81年)、五木ひろし「凍て鶴」(’08年)、島倉千代子「からたちの小径」(’13年)、石川さゆり「恋しゅうて」(’16年)、他多数。また、山内惠介「スポットライト」(’15年)などで「日本レコード大賞」作詩賞を、伍代夏子「肱川あらし」(’17年)で「日本作詩大賞」の大賞を受賞。手掛けた作品は700曲以上にのぼる。「日本作詩家協会」会長や「日本音楽著作権協会(JASRAC)」理事を歴任。競艇のコラムや小説なども執筆した。

「偲び送る会」には歌手、作家、喜多條と親交の深かった友人、音楽関係者、他約500人が参列、それぞれ祭壇に花を手向けた。式典では、実行委員長で「日本作詩家協会」会長の石原信一、「日本作曲家協会」会長で「日本音楽著作権協会」会長の弦哲也があいさつ。
石川さゆり
続いて、喜多條の最後の作品「獨り酒」を歌った石川さゆりが「レコーディングをしていたある日、喜多條さんが突然おっしゃった言葉を思い出します。『吉岡治さんが亡くなる少し前に、僕に言ったのよ。これから先石川さゆりのことよろしくお願いしますねって。だからさゆりさんの歌、一生懸命書くから一緒に頑張りましょうよ』と。あのお言葉を聞いてから喜多條さんとはいろいろなお話をしました。これからも喜多條さんと楽しく歌を作った日を大切に、私もまた歌を届けてまいります」と喜多條への思いを語った。
五木ひろし
その後、五木ひろしが「喜多條さんと初めて仕事をしたのは、私が独立した昭和54年のことでした。新しい歌と出会いたいと思い、作ってもらったのが『蝉時雨』です。その後、『凍て鶴』を紅白で2年連続歌ったことなども思い出します。喜多條さんは74歳で旅立たれました。私と同い年です。喜多條さんたちが作り上げた歌謡曲の歴史をしっかりと受け継ぎながら、私たち歌い手はさらに頑張っていきたいと思います」と献杯のあいさつをした。
五木ひろし、南こうせつ
また、南こうせつが「喜多條さんと出会ったのは1970年ごろ。文化放送でお会いしました。放送作家だったんですね。台本を書いているのを横から眺めて、格好いいなと思いました。『喜多條さん、歌の詞は書かないんですか?』と聞くと『自由詩なら書く』と。近くの喫茶店で、僕たちは歌の世界にかかわりながら、いつか青山にでかいビルを建てて、自由なお城を作ろう、という話をしたことをはっきりと覚えています。その後にできたのが『マキシーのために』です」と二人の出会いについて語り、急きょ壇上に呼んだ五木と「神田川」を歌った。

最後は喜多條とともに稲門歌謡会(早稲田大学のOB会)の副会長を務めた作詞家・いではくが閉会のあいさつをし、喪主の妻・喜多條輝美さんが「喜多條はわがままで面倒くさい人でしたが、愛情深く楽しい人でもありました。闘病中もたくさんの心に残るエピソードを残してくれました。きっと皆さんの中にもエピソードをお持ちの方がいらっしゃると思います。時々は思い出して、愛のある悪口を言ってあげてください。皆さまが忘れない限り、喜多條は生きている、私はそう信じています」と参列者へお礼の言葉を述べた。

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